「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

歎異抄第1章を読む 最初の1文

2009/08/12(水)
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

この文は浄土真宗とはどういう教えなのか。阿弥陀仏の救いとはどういうものなのかを短い言葉で表わされたものです。
第1章の解説は世の中にはいろいろな本がありますし、インターネットでも検索すれば、いくらでも書かれていますので、そちらにお任せしますが、下に述べる浄土真宗の構造を頭に入れて読まれると、理解しやすいと思います。

この文は3つの内容に分けることができます。
①弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて
②念仏申さんとおもひたつこころのおこる(とき)
③(すなはち)摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

①が信
②が行
③が得益
です。

第18願の願文にあてはめるならば、
①至心信楽欲生我国
②乃至十念
③若不生者(不取正覚)

真実五願にあてはめるならば、
①第十八願
②第十七願
③第十一願(+第十二願、第十三願)
となります。

現生は正定聚の身となり、当来は阿弥陀仏がつくられた報土に往生し成仏するという結果(得益)に対して、その原因(往因)を教えられたのが「信」と「行」です。
そしてそれは阿弥陀仏の回向の法であること。
往生の正因は信心であること。
これが浄土真宗です。

前にも述べましたが、歎異抄を読み解く言葉は「本願念仏」と「善悪」です。
第1章は「弥陀の救いは死後である」という誤解を正すために書かれたという人もいますが、歎異抄が書かれた当時の異義は
・造悪無碍
・専修賢善
・誓名別執
・知識帰命
などが中心であり、いつ救われるかということは問題になっていませんので、その指摘は的外れでしょう。

そもそも浄土門においては、「平生か臨終か」ということは問題になっても、「平生か死後か」ということはそれほど問題にはなりません。
浄土往生は死後のことなのですから。
死後救われると言うのは当たり前のことなのです。
その死後の救いを否定したり、否定しなくとも軽視するかのような表現は慎むべきでしょう。

問題となるのは、浄土往生の業事が定まるのが平生か臨終かなのです。
親鸞聖人は臨終の善悪によって往生が決まるのではない、平生、聞即信の一念で往生の業事が定まると教えられたのです。
これを平生業成と言われます。

【訂正】
 五願の説明のところで、間違いがありましたので、本文を訂正しました。