「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

無碍といふこと 2

2009/09/22(火)

前回に引き続き「法界身」「無碍の一道」を理解するためのお聖教の文をあげます。
今回は尊号真像銘文『浄土論』の文です。
最初の4句1行「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」は回向文として有名です。
この中の「一心」は親鸞聖人が「三一問答」で至心・信楽・欲生我国の三心が信楽の一心におさまると述べられた「一心=真実信心=他力信心」です。
一心には「無二心」「専一心」の意味があります。
無二心とはふたごころが無いということ、不定・若存若亡ではないということです。
専一心とは本願のみを信ずるということです。
この4行の大まかな意味は
1行目 天親菩薩の安心
2行目 安心のよりどころ

 (論註では「いづれのところにか依り、なんのゆゑにか依り、いかんが依る」とあります)
3行目 極楽浄土の相(清浄功徳・量功徳=浄土の性質と大きさ)
4行目 極楽浄土の相(不虚作住持功徳=本願のはたらき)

※実際には1~3行は続いていますが、4行目は離れています。
となります。
『浄土論』を理解する時は、曇鸞大師の『往生論註』も合わせて読んで下さい。
以下の引用では、「帰命尽十方 無碍光如来の説明部分を強調表示にしました。

婆藪般豆菩薩『論』曰
「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国
 我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応
 観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際」(浄土論29)と。
又曰
「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(浄土論31)。

 「婆藪般豆菩薩論曰」といふは、「婆藪般豆」は天竺(印度)のことばなり、晨旦(中国)には天親菩薩と申す。またいまはいはく、世親菩薩と申す。旧訳には天親、新訳には世親菩薩と申す。「論曰」は、世親菩薩、弥陀の本願を釈しあらはしたまへる御ことを「論」といふなり。「曰」はこころをあらはすことばなり、この論をば『浄土論』といふ、また『往生論』といふなり。
「世尊我一心」といふは、
「世尊」は釈迦如来なり。
「我」と申すは世親菩薩のわが身とのたまへるなり。
「一心」といふは教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり、すなはちこれまことの信心なり。
「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、
「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。
「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。
「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。

「無碍」といふは、さはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
「光如来」と申すは阿弥陀仏なり。この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。

「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの無碍光仏を称念し信じて安楽国に生れんと願ひたまへるなり。
「我依修多羅真実功徳相」といふは、「我」は天親論主のわれとなのりたまへる御ことばなり。
「依」はよるといふ、修多羅によるとなり。
「修多羅」は天竺(印度)のことば、仏の経典を申すなり。仏教に大乗あり、また小乗あり、みな修多羅と申す。いま修多羅と申すは大乗なり、小乗にはあらず、いまの三部の経典は大乗修多羅なり、この三部大乗によるとなり。
「真実功徳相」といふは、「真実功徳」は誓願の尊号なり、「相」はかたちといふことばなり。
「説願偈総持」といふは、本願のこころをあらはすことばを「偈」といふなり。
「総持」といふは智慧なり、無碍光の智慧を総持と申すなり。
「与仏教相応」といふは、この『浄土論』のこころは、釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへりとなり。
「観彼世界相勝過三界道」といふは、かの安楽世界をみそなはすに、ほとりきはなきこと虚空のごとし、ひろくおほきなること虚空のごとしとたとへたるなり。
「観仏本願力遇無空過者」といふは、如来の本願力をみそなはすに、願力を信ずるひとは、むなしくここにとどまらずとなり。
「能令速満足功徳大宝海」といふは、
「能」はよしといふ、
「令」はせしむといふ、
「速」はすみやかに疾しといふ。
よく本願力を信楽する人は、すみやかに疾く功徳の大宝海を信ずる人のその身に満足せしむるなり。如来の功徳のきはなくひろくおほきにへだてなきことを、大海の水のへだてなくみちみてるがごとしとたとへたてまつるなり。
尊号真像銘文 註釈版聖典651-653頁)


《註釈版の補註》
帰命尽十方無碍光如来
補註1

《註釈版の脚注》
世尊我一心・・・
 「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説きて仏教と相応せり。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし。(真仏土巻・行巻訓)

観仏本願力・・・
 「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」(行巻訓)

旧訳
 玄奘(600または602-664)以前の翻訳。

新訳
 玄奘以後の翻訳。

さはる
 障害となる。

如来
 「無礙光如来」を通常ならば「無礙光」「如来」と分節するのを親鸞聖人はあえて「無礙」「光如来」と分節している。「この如来は光明なり」(651頁14行)という旨を強調するためであろう。

微塵刹土
 数限りない国土。

三部の経典
 『大経』『観経』『小経』の浄土三部経のこと。

みそなはす
 (天親菩薩が)ご覧になる。