「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

方便といふこと 4

2009/09/22(火)

このような解釈を見かけました。
(平成21年8月15日、浄土真宗親鸞会発行の顕正新聞

無上の信心と善巧方便

釈迦弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり」(高僧和讃


 弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
教行信証』では「それおもんみれば、信楽(無上の信心)を獲得することは如来(弥陀)選択の願心より発起す。真心(無上の信心)を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり」
 われら無上の信心は、弥陀釈迦の善巧方便なくして発起することはあり得ないのである。

この中の、
 弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
が間違いです。

もし「善巧方便」「願」「経」を使いたければ、
 弥陀の善巧方便とは48願であり、釈迦の善巧方便とは『大無量寿経』、広く言えば『浄土三部経である。
としなければなりません。

もし「方便」「19願」「20願」「観無量寿経」「阿弥陀経」を使いたければ、
 弥陀の権仮方便とは19願、20願であり、釈迦の権仮方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
とすべきでしょう。
しかし、これでは前後の意味が通らず、御和讃の説明にはなりません。