2009/09/22(火)
このような解釈を見かけました。 無上の信心と善巧方便
(平成21年8月15日、浄土真宗親鸞会発行の顕正新聞)
この中の、
「釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり」(高僧和讃)
弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
『教行信証』では「それおもんみれば、信楽(無上の信心)を獲得することは如来(弥陀)選択の願心より発起す。真心(無上の信心)を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり」
われら無上の信心は、弥陀釈迦の善巧方便なくして発起することはあり得ないのである。
弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
が間違いです。
もし「善巧方便」「願」「経」を使いたければ、
弥陀の善巧方便とは48願であり、釈迦の善巧方便とは『大無量寿経』、広く言えば『浄土三部経』である。
としなければなりません。
もし「方便」「19願」「20願」「観無量寿経」「阿弥陀経」を使いたければ、
弥陀の権仮方便とは19願、20願であり、釈迦の権仮方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
とすべきでしょう。
しかし、これでは前後の意味が通らず、御和讃の説明にはなりません。