「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

顕正新聞を読んで②

2009/10/16(金)

浄土真宗親鸞会(以下 親鸞会)発行の顕正新聞(平成21年10月15日号)の大喝
題:平生業成の本願
「善をしてゆけば、そのうち助かる」と聞き誤っている者がいる。「今、助けるという平生業成の教えに反する」と、非難してくる者さえある。
 だが二千畳では常に「平生の一念に助ける」弥陀の本願ばかりが説かれているのだ。平生とは現在ただ今。「今、助ける」本願が常に説き切られているのに、「善の積み重ねで助かる」とか「そのうち助かる」と聞くのは、とんでもない聞き誤りではないか。『歎異抄をひらく』にも「弥陀の救いは『今』である」と明言されている。言ってもいないことを言っていると的外れの非難は自損損他にしかなるまい。
 一念往生、現生不退が阿弥陀仏の救いである。釈尊親鸞聖人も、ただこの阿弥陀仏の救いのみを伝えられている。そのみ教えを「我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」が親鸞学徒だ。そのうえでなお善を勧める理由を問うならば、それは阿弥陀さまの願心だから、阿弥陀さまに聞かれるがよかろう。

 この文章は非常に面白いですね。普通コラムというのは、編集室の中で一番文章の上手な人が書くのでしょうが、思いついたままを文字にした感じを受けます。
 最初の文の“聞き誤っている者”は誰か、次の文の“非難してくる者”は誰かはっきりしていません。“聞き誤っている者”というのが親鸞会外部の人ならば、どういうこと?となるでしょうし、会員または参詣者のことを指しているならば、だったら正しく教えればいいのではないですか?ということになります。会員はこのコラムを読んで意味が分かるのでしょうが、こういう文章に慣れてしまうと、一般社会の普通の文章が読めなくなってしまいます。さて、ここでは「者」という高圧的な表現をしていますので、外部の人を指していると思われます。
それならば、
親鸞会は「善をしてゆけば、そのうち助かる」と主張している”と聞き誤っている者がいる。
とすべきでしょう。
これならば文章は通りますし、次の文章へもつながっていきます。それよりも次の文と一つにして、
親鸞会は「善をしてゆけば、そのうち助かる」と説いている”と聞き誤り、「親鸞会の主張は、今、助けるという平生業成の教えに反する」と非難してくる者がいる。
とした方が分かりやすいかもしれません。でもかなり冗長な文章になってしまいます。「聞き誤り」という言葉を安易に使っているところにも、この文章を分かりにくくしている要因があると思います。さらに手を加えて、
親鸞会は「善をしてゆけば、そのうち助かる」と説いており、今、助けるという平生業成の教えに反する”と非難してくる者がいる。”
とでもしたらいかがでしょうか。

 しかし、多くの親鸞会の会員が「善をしてゆけば、そのうち助かる」と思っているならば、
親鸞会の会員は「善をしてゆけば、そのうち助かる」と思っている”
との指摘は妥当なものですし、会員は聞き誤っていますよと注意を喚起することはいいことではないでしょうか?もし会員が誰も聞き誤っていないのならば、余計なお世話となるでしょうが。

 この後、親鸞会では常に平生業成の教えが説かれていることが述べられています。それはそれで結構です。短い文章の中に「常に」を2回も使っていることからも強調したい心が分かります。

 次に“言ってもいないことを言っていると的外れの非難”とあります。誰がそのような非難をしているのか分かりませんが、そういう非難をしてきた人に対して、親鸞会はなんらかの対応をしたのでしょうか。コラムの記事ですので、そのことについて触れる余裕はないでしょうが、それならば、「こんな非難があった」と書くよりも、正しいことを明らかにすればいいことでしょう。非難について書くならば、対応・反論についても書くべきだと思います。

 次にまた、一念往生・現生不退について書かれています。これはこれで結構です。

 最後に“そのうえでなお善を勧める理由を問うならば、それは阿弥陀さまの願心だから、阿弥陀さまに聞かれるがよかろう。”と結んであります。やはり親鸞会では善を勧めているということは必ず言っておかねばならないようです。その理由が「阿弥陀さまの願心」だそうですが、これはたぶん第19願のことを指しているのでしょう。
 いつも思うのですが、それほど第19願について言いたければ、第20願についても言えばいいのに、どういうわけか言わないのですね。念仏については非常に軽視していますが、これについてはあらためて書きます。
 十方衆生に善が勧められていると主張するならば、十方衆生に念仏が勧められているということも言えるはずですが、“そのうえでなお念仏を勧める理由を問うならば、それは阿弥陀さまの願心だから、阿弥陀さまに聞かれるがよかろう。”という言葉でさえも親鸞会の人からは聞いたことがありません。