「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

観無量寿経のこころ その5 釈尊の沈黙の意味

2009/10/23(金)

深川倫雄和上

釈尊の沈黙の意味については既に一度書きました。
観無量寿経 覚書 その2
ところで
「私は仏法を聞いているのになぜ救われないのだろうか?」
という疑問を持っている人もいるでしょう。
先の「極難信」に引いたこととは違った観点から言いますと、それは、
「あなたの聞いている“仏法のようなもの”が正しくないからです。つまり、正しい仏法を聞いていないからです。」
とも言えます。
(某ブログなどに書かれている「因果の道理」などはとても仏の教えとは言えません)
釈尊の沈黙の意味」一つをとっても、真逆の意味で説明している人もいます。
これでは阿弥陀仏釈尊の心を知ることはできないでしょう。
『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 320頁より引きますので、読んで下さい。

捨てて流転せしむべからずとは、仏の慈悲の心である。罪業の衆生を救うという如来は決して罪業の奨励も許可もしない。人はみな現在を生きる。未来に向かって生きる。過去はそれが善悪の何れであれ、どうすることも出来ない。
 例えば『観経』の序分、韋提希夫人の王宮に降臨された世尊は、怨を子に致して、悶絶号哭し、何等因縁と問い奉るに対して、黙然として語りたまわず。過去を解明してもどうすることも出来ない。現在の苦を知らんと欲せば過去の因を見よという言葉(註⑦)は、理かは知らねども慈悲なき言葉である。過去が現在を救いはしない。夫人の心が未来に向い、我を教えて清浄業処を観ぜしめよと請い奉ると、忽ちに光台現国以下、身業、口業の説法が始まった。太子、父王、夫人、その他の織りなした逆悪など、既に造れる罪業を問責するものではないことを示している。ことは未来にある。
既に造った罪業は、その苦報を思うにつけ捨ててはおけないのが如来の慈悲である。それが五劫思惟の時、一切衆生の曠劫流転の姿をみそなわした慈悲の心である。


註⑦ この語は伝聞して『因果経』にありというが、因果経は現存せず、文を検し得ない。