2009/11/18(水)
『歎異抄をひらく』の150頁から151頁にかけて次のように書かれています。
この「他力信心」以外、聖人の教えはないから、「信心為本」「唯信独達の法門」と言われるのだ。
簡潔な文証を二、三、あげてみよう。
涅槃の真因は唯信心を以てす (教行信証)
浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。
正定の因は唯信心なり (正信偈)
仏になれる身になる因は、信心一つだ。
この部分を読んで、なぜかしっくりこないと思っていました。
それは正信偈の「正定之因唯信心」の説明にあります。
仏になれる身になる因は、信心一つだ。
とありますが、これはおかしいですね。
信心正因を表す文証として、教行信証の言葉とともにあげられているのに、2つの現代語訳は違います。
「涅槃の真因は唯信心を以てす」の訳はいいのですが、「正定之因唯信心」の訳は「仏になれる身(正定聚)になる因は、信心一つだ」となっています。
これは「正定」を「正定聚」が略されたものと理解しているところから来るのでしょう。
親鸞会の正信偈解釈は“「正定」ときたら必ず「正定聚」”となっていますので、「本願名号正定業」も「本願の名号には正定聚にするはたらきがある」と説明します。
(これもおかしいのですが)
これだと信心正因を正しく示していません。
「正定之因唯信心」の意味は「涅槃の真因は唯信心を以てす」と同じであって、「往生成仏の正因はただ信心だけである」です。
両重因縁釈(光号因縁釈)にもありますように、信心が因で、往生成仏・報土の真身が果です。
必ず成仏することが決定した仲間のことを正定聚といいます。
親鸞聖人は現生で往生成仏が決定するから、現生正定聚と教えられたのです。
仏因円満の法である信心を領受しているから正定聚であると言われたのです。
しかし、正定聚の因が信心であるという説明は親鸞聖人から聞いたことがありません。
「正定聚」と「滅度」を混同していますと、一益法門に陥る危険性があります。