「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

歎異抄第2章を読む その4

2009/08/07(金)
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

「おはしまさば」は文法的には、未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表します。このあとの文も「おはしまさば」「ならば」「ならば」と同じですので、仮定として訳すべきでしょう。
これは「仮定ではない」という人もいます。その理由は「阿弥陀仏の本願まことは明らかだから、仮定で本願を語られるはずがない」というものですが、はたしてそうでしょうか。
確かに親鸞聖人にとって「阿弥陀仏の本願まこと」であったことは言うまでもないのですが、聖人直筆の文ではないにしろ、直接聞いた歎異抄の著者がこのように書いているのですから、自分の思いで文章自体を変えてしまうのではなく、親鸞聖人のお言葉の深意・真意を汲み取ろうとすることに努力すべきではないでしょうか。

このことについては、梯實圓勧学が説明しておられますので、そのまま紹介します。


しかし、このことをいうのに「まことにおわしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に、奇異な感じをうけます。そこには、反語的に意味を強めるようなひびきも感じられますが、何よりも「親鸞が申すむね、またもってむなしからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆえに、親鸞が申すことも決していつわりではない」と断言するでしょう。そして「親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(『註釈版聖典』八三五頁)といいつづけられた親鸞とは、ちがった人格になってしまいます。
 聖人は、「法」の名によって「私」を主張することを厳しく自戒されています。自分がいただいている教法が貴いということは、自分が貴いことでは決してありません。むしろ、教法の貴さがわかればわかるほど、自身の愚かさを思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名をかりて、自己を権威づけようとするほど醜いものはありません。
 こうして親鸞は「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」とおことばを結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、門弟たちの一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の厳しさを知らしめられていたといえましょう。
(『聖典セミナー 歎異抄』102-103頁 梯 實圓著 本願寺出版社 ISBN978-4-89416-565-6)
(『親鸞』70-71頁 梯 實圓著 大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5 にもほぼ同じ文があります)


私もこの通りと思います。
梯師の文章でもう1点注目すべきは、「一人ひとりが如来のまえにたって・・・」という箇所でしょう。
「信心獲得したいのです」と口では言っていても、直接阿弥陀仏に対峙せず、「私はまだ・・・」「なかなか・・・」「環境が・・・」などと言い訳を言って逃げていては、無常との競争以前の問題です。