「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

歎異抄第3章「悪人正機」を読む 機無・円成・回施・成一

2009/08/18(火)

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意

浄土真宗には他力回向の救いを表す「機無円成回施成一」という言葉があります。

 機無 私達には生死を離れることのできるような、清浄真実の心は全く無い。

 円成 阿弥陀仏が私達に代わって、清浄真実な至徳(=名号)を完成された。

 回施 阿弥陀仏が至徳(=名号)を私達に等しく与えて下さる。

 成一 至心も欲生も、無疑の一心=信楽に帰一する。


歎異抄第3章の「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」は、機無を表します。

この「機無」ということが、歎異抄第3章で言われる「悪人」なのですが、あくまでも、「迷いの世界を抜け出すのに役立つような、清浄真実の心は全く無い」ことであって、「無間地獄しか行き場のない無類の極悪人」ということではありません。
間違えやすいところですが、注意して下さい。

三心釈で機無の部分をお示しします。

[至心釈]
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
教行信証信巻 註釈版聖典231~232頁)

[信楽釈]
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。
教行信証信巻 註釈版聖典234~235頁)

[欲生釈]
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。
しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。
欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
教行信証信巻 註釈版聖典241頁)

歎異抄の「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」の中の「いづれの行もおよびがたき身」も同じ意味です。