「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

歎異抄第3章「悪人正機」を読む 『歎異抄をひらく』を読む その5

2009/08/20(木)

歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
まとめたいと思います。

【これまでの記述のサマリー】
1.「その1」では第1部の意訳についての感想を述べました。
そこでは、「自力の心をひるがえして」の訳が「弥陀の徹見通りの自己に驚き」となっていることを誤りであると指摘しました。

2.「その2」では第2部全体の中で、歎異抄第3章にさかれている量が少ないことを述べました。

3.「その3」では、「テーマ」と「結論部分」がかみ合っていないことを述べました。

4.「その4」では細かい表現について感想を述べました。
 これについては、文中で書いておりますように「重箱の隅をつつく」「アラさがしをする」目的で書いたのではありません。
 一つひとつの例は問題にするようなことではなくても、全体として、型にはめるような方向性があることを指摘しました。
 また、それぞれの例については、読まれた方によっては私と異なる意見をお持ちの方もあるでしょう。そして、「そこまで言わなくてもいいのではないか」「その指摘は的外れだ」と思われたかもしれません。
 例を10列記した理由は上に述べたもので、その点を理解して頂くことをお願いするとともに、不快な思いをなされましたら、この場を借りてお詫び申し上げたいと思います。

 なお、第10例につきましては、大きな間違いであると思います。「その1」とも関連します。

【感想のまとめ】
1.「善悪」の問題と「信疑」の問題を混同しています。
 それが、“自己に驚き”や“ごまかしの利かない阿弥陀仏”、“邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心”などの表現に出ています。

2.上記1と関連することですが、有名な親鸞聖人の「悪人正機」説に関する記述が少ないことは、著者は「悪人正機」についてあまり述べたくないのではないかと思います。
 言葉を変えて言えば、
「どんな悪人でも救われる」「善悪と弥陀の救いは関係ない」などのことはあまり言いたくなくて、
「自分が悪人と気づかないと救われない」→「助かる為に善をするのは間違いだが、気づく為(まで)にはやはり善をしなければならない」という方向へ誘導されているような感じを受けます。
(もちろん、そのようなあからさまな表現はありません)