「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

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歎異抄第3章「悪人正機」を読む 『歎異抄をひらく』を読む その4

2009/08/19(水)


歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
「第2部『歎異抄』の解説」の感想の続きです。

今回は細かい表現について考えます。
これは決して「重箱の隅をつつく」ということではありません。
一つひとつの文章を無批判に正しいと思ってしまうことが重なると、すべてのことに無批判になってしまう危険性がありますので、それを避けるためです。

この章のすべての文について見るわけではなく、いくつかの例をあげたいと思います。

例1“・・・もっとも有名な言葉といわれる。衝撃的な内容だけに、大変な誤解も生んだ。”
・「もっとも有名な言葉といわれる」根拠がありません。
・「大変な誤解」とは何でしょうか。
 読者はコンテクストからは次の「造悪無碍」と読みます。
 しかし、「造悪無碍」は法然上人、親鸞聖人在世の頃よりあった異義で、歎異抄第3章によってこの異義が発生したものではありません。
 歎異抄第3章に「造悪無碍」を生む危険性は当然あるのですが、すべてが第3章のせいではないでしょう。
 事実、今日歎異抄を読んでいるどれほどの人が「造悪無碍」に陥っているのか分かりません。

例2“・・・誰でも思うだろう。”
・本当に誰でも思うのでしょうか?
・少なくとも私は「えっ、どういうこと?分かるように説明して下さい。」と思いました。
 そう思う人も少なくないと思います。

例3“私達は常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて・・・”
・「常識」「法律」「倫理・道徳」は必ずしも同じ善悪の判断を下すわけではありません。
 「常に」という表現は適当ではないと思います。

例4“極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる”
・極めて抽象的な表現であり、前のフレーズの“だが、聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない”に対する言葉になっていません。この場合は“○○の(という)悪人である”という表現が必要です。

例5“悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人々は”
・訳が反対です。

例6“しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮”
・この文は至心釈の「機無」の次に書かれています。
 原文にない挿入された文であり、お聖教の言葉に、こう思うべきだという間違ったニュアンスを加えています。

例7“ごまかしの利かない阿弥陀仏に”
阿弥陀仏が何か私達を監視しておられるようなニュアンスを与えています。
 以前述べた「見聞知」の記述を参考にして下さい。

例8“悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。”
・悪人=全人類、人間の代名詞とするならば、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の説明を途中であってもしなければならないでしょう。
 意味が通らなくなることは予想できます。
 ここで「自分は悪人と思わなければならない」という考えが生まれます。

例9“念仏くらいは称え切れる”
・念仏を称え切るとはどういうことを意味するのか分かりません。

例10“邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心”
・自己の悪に気づかない心と、「自力作善」の自惚れ心とは違いますが、この文ですと同じ意味になっていまいます。
 この部分の間違いは重要です。

このように、時には大きな、多くの場合は気付かないほどの小さな「間違った表現」「あいまいな表現」によって、読者は潜在意識下に「特定の」「共通した」考えを抱くことになります。
「その1」にも述べましたが、たとえそれが「自己に驚く」という5文字であっても、それがネックとなってしまい、「今救われる教え」が「永久に救われない教え」になってしまうのです。