「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

「現代に生きる仏説」を読んで

2009/08/24(月)


親鸞会のHPのコラムに「聞法の決勝点」と題する文章が書かれていました。(H21.8.24)

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。
 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。
「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証
「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。
(以下略)


細かいことはいいとしまして、この文章には大変な間違いがあります。
それは、
「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
です。

後の文章で、
本願のお目当てを「生起」という。
とありますので、これをあてはめますと、
「本願のお目当て」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
となります。
これでは「法」が全く抜けてしまっています。
本来、この親鸞聖人のお言葉は、本願成就文(第18願成就文)の「聞其名号」の説明であり、「聞とは、南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ということなのに、いつの間にか「自分の相を聞く」とすり替わっているのです。

もし、多くの人がこのように理解しているのならば、どれだけきいても聞信するということはありません。

仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し

仏願の「生起」と、仏願の「本」「末」を聞いて全く疑心が無くなった

ということです。
「生起」と「本末」と「疑心有ることなし」の簡単な意味は以下の通りです。
「仏願の生起」-機ー罪悪生死の凡夫であり、出離の縁有ることない私
「仏願の本末」-法ー法蔵菩薩の五兆の願行と、それによって成就した名号のお力
「疑心有ることなし」-無疑の一心ー信楽ー信心

大事なところです。