2009/09/13(日)
『歎異抄をひらく』の第7章から第10章を読む
【第7章】
○「仏教の究極の目的は、“浄土往生”である。」については、指摘される人もあるかもしれないですが、ここではとりあえずパスします。
○しかし、バイアスがかかっている箇所があります。(このことは、この章には限りません)
・歎異抄第1章の言葉の説明
「どんな罪悪を犯しても、、自分の罪の深さに怖れおののき、
浄土往生を危ぶむ不安や恐れは皆無となる。」
往生一定が変わるわけではありませんが、これだと、罪悪感が無くなる
ような誤解を与えます。
・「念仏者」に3通りあるという表現
こういう言葉を聞いたことがありません。
これだと念仏を称えたことがあるすべての人が念仏者になってしまいます。
念仏者はあくまでも阿弥陀仏に救われた人ととらえるべきです。
「3通りの念仏」自体は間違いではないですが、ここでその説明する
必要はないでしょう。
【第8章】
問題点はすでに指摘済みです。
【第9章】
○ここでは教義上の問題というよりも、全体を通して文章が高圧的な感じがします。
「懺悔も歓喜もなく、喜ばぬのを手柄のように思っている、偽装信仰者の不満とは全く違うのだ。」
「仏法の入り口にも立たない者が、・・・と開き直っているのとは、全然次元が異なるのだ。」
○なぜか読みにくい文章
理由を考えてみました。
・上に述べたこととも重複しますが、この9頁の中に「当然」という単語が4か所
出てきます。
2箇所は誤解している人の言葉として、2箇所は著者の言葉としてですが、
多すぎるでしょう。
・ここの章だけではありませんが、「言う」とか「書く」という動詞をいくつもの
違う言葉で表現されています。
第7章から第10章だけでも
「公言する」「喝破する」「詳説する」「道破する」「断言する」「歓声が轟く」
「解説する」「教導する」「詳述する」・・・と多いです。
たぶん「同じ言葉を使うのは下手な文章である」という固定観念がある
と思います。
確かに一本調子ではいけないのでしょうが、あまりにも多すぎます。
○文法上おかしい言葉
・『歎異抄』の危ぶさ
動詞を名詞化する時にこのようなことは言いません。
「さ」をつけて名詞化するのは形容詞です。
たぶん「危うさ」の間違いでしょう。
【第10章】
○文法上おかしい言葉
・弥陀が、・・・大宇宙の功徳(善)を結晶されたのが、
「南無阿弥陀仏」の名号なのである。
名詞に「する」をつけて動詞にできるものがあります。
このような語をサ変動詞と言います。
動詞には、自動詞と他動詞の別があります。
自動詞とは目的語を持たないもの、他動詞とは目的語も持つものです。
一つの動詞が自動詞にも他動詞にもなる場合があります。
たとえば「決意」と「決心」とは同じような意味の名詞ですが、
これらを動詞にした
「決意する」と「決心する」とは違ってきます。
「決意する」は自動詞にも他動詞にもなりますが、
「決心する」は自動詞です。
「結晶」が動詞になった「結晶する」は自動詞であり、
「○○を結晶する」というのは文法上間違っているのです。
○文章がおかしい
・255頁の
故に、「念仏には無義をもって義とす」とは、他力の念仏は、
私たちの想像や思慮の、自力の心の浄尽した念仏だから、
「不可称・不可説・不可思議のゆえに」と、聖人は言われた
のであろう。
ですが、故に・・・と、聖人は言われたのであろう。の・・・の部分が
文章になっていないので、どれだけ読んでも意味が分かりません。