「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

念仏は大行ではないのでしょうか

2009/09/15(火)

歎異抄をひらく』を読んだ感想の一つです。
歎異抄第8章について書かれた、第2部『歎異抄』の解説(14)に次の文章があります。

 まさに、信心も念仏も、弥陀より賜る大信心であり、大行なのである。
 南無阿弥陀仏の大功徳が耳から攬入し、全身を貫き口に溢れて、南無阿弥陀仏の大宝海にかえるのだ。
 嬉しい思いも、寂しい心も、頼りにせず、障りにもならぬ。“信に信功をみず、行に行功をみず”、信行ともに、不可思議の願海に帰入するのである。
 信ずる心も称える心も、みな南無阿弥陀仏の独り働きとなり、私をして動かすものであり、私は動かされているだけなのだ。
 聖人の教えを「絶対他力」と言われる所以である。
(240-241頁)

間違いだとは言いません。
しかし、なぜ「信ずる心も称えるも」なのかという疑問が起きるのです。
信ずる心と称える心だと、ともに「心」で同じではないですか。
その前の文章で「信心も念仏も、弥陀より賜る大信心であり、大行なのである」「信行ともに、不可思議の願海に帰入するのである」と書かれているのに、なぜ「信ずる心も称える念仏も」と書けないのか。
念仏という「行」を軽んじている表れだと思います。