「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

実時と仮時

2009/09/14(月)

時には実時と仮時があると説かれます。
 実時=迦羅時   時は実在であると考える時に使われる。外道の考え。
 仮時=三摩耶時 時は実在のものではなく、仮のものと考える。
「時無別体 依法而立(時に別体なし 法によって立つ)」
と言われますように、時間に実体はなく、事象によって時と名づけるものが仮時です。
仏教では「時は仮である」と説くのです。

さらに、この仮時の中に2種あります。
○仮時中の仮時=事究竟としての時=浄土真宗で仮時という時はこれ
  「何々をしていた時」など、事によせて時を示す
  「一時仏在舎衛国」の「一時」など
  時間的な長短は問題にしません
○仮時中の実時=勝義実時としての時=浄土真宗で実時という時はこれ
  1時間とか1分間など時間の単位を示す場合
  何月何日と日時を示す場合
  百一の生滅を一刹那と名く、六十刹那を名て一念と為す(往生論註 十念釈義)など

本願成就文の乃至一念の一念は、「仮時中の仮時」なのか「仮時中の実時」なのか、議論があり、いろいろな説があります。
少し難しくなりますが、「時剋の極促の促」が「延促対」の促なのか「奢促対」の促なのかという議論とも関わります。
(これは、どちらか一方に限るということでありません。親鸞聖人はどちらの意味でもおっしゃっています。どちらを主な意味にするかということでしょう。)
これに「覚知なし」「覚知あり」(意業安心とは異なります)の2通りが絡みますので、単純に計算すると、2通り×2通り×2通りの8通りの説ができます。
(実際はそれほど多くはありませんが)
なお、「覚知あり」とする場合でも、上記の往生論註の説のようなものではありません。
大小長短遅速はありません。

※記事を一部修正しました。
修正箇所
なお、「実時」とする場合でも、上記の往生論註の説のようなものではありません。

なお、「覚知あり」とする場合でも、上記の往生論註の説のようなものではありません。