「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

機といふこと

2009/09/30(水)

の意味は、註釈版聖典の補註3に説明されています。
はじめの部分だけ、ここに書きます。
 とは、法(教法)に対する言葉である。つまり、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救済されるべきものをいう。
 一般に衆生は同じような意味で用いられているが、衆生(有情)は、「生きとし生けるもの」という意味であり、その衆生が教法に対したときにといわれるのである。


法蔵館真宗新辞典』にも、いろいろ説明されていますが、「」とは
①の説明
縁に遇えば発動する可能性をもつもの。仏の教法を受けその教化を被る者の素質能力。教化の対象。
⑤の説明
仏の説法に際してその教えを受けるべき相手が実在しないために権者がかりに受け手として現れたのを権、実在の相手を実機といい、観教の説法の対象である韋提について権実の論がある。
と書かれています。
「実機」についての独立した項目はありません。

なお、同じ法蔵館真宗辞典』では、「機」とは、
何等か生ずべきはずみのこと。即ち機は可発の義にして、人の心が縁によって活動を発すべき機微をいふ。又この意味より、教法の力に応じ、信心を発する衆生の心をもかくいふ。
とあります。
また、「実機」とは、
権機に対す。実業の機ともいひ、実際の悪人としての根機をいふ。観経の対機たる韋提を、菩薩の化現せるものと見ずして、貪瞋具足の女人と見るが如し。又己が悪人凡夫としての如実相に目ざめたるをも「己が実機」といふ。
とあります。

いずれにせよ、「法」を離れて「機」が語られることはないようです。

【補足:衆生と有情】
梵語サットヴァ(sattva)の漢訳は、旧訳(玄奘以前)では「衆生」、新訳(玄奘以後)では「有情」です。
親鸞聖人は、83歳より前の著作中に引用文以外では「有情」という言葉を使っておられません。83歳以後は「衆生」よりも「有情」の方が多くなっています。

(例)
76歳の時に作られた高僧和讃(118)では
 五濁悪世の衆生
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

85歳以降に作られた正像末和讃(31)では
 五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

83・84歳頃の善鸞事件が関係しているのかどうかは分かりません。