「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

唯信鈔文意を読む 5

2009/10/09(金)

唯信鈔文意の第2章 法照禅師『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句の最後の句「観音勢至自来迎の説明部分
原文は長いので「註釈版聖典701-703頁」をご覧下さい。
“「観音勢至自来迎」といふは、~すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。”

【現代語訳】浄土真宗聖典 現代語版より)
「観音勢至自来迎」というのは、南無阿弥陀仏如来智慧のはたらきとしての名号であるから、この不可思議光仏の名号を疑いなく信じ心にたもつとき、観音菩薩勢至菩薩は、必ず影がその姿に付き添うように離れないでいてくださるのである。この無礙光仏は、観音菩薩としてあらわれ、勢至菩薩として姿を示してくださる。ある経典には、観音菩薩を宝応声菩薩と名づけ、日天子と示している。この菩薩は無明の闇を払ってくださるという。また、勢至菩薩を宝吉祥菩薩と名づけ、月天子とあらわしている。この菩薩は迷いの長い夜を照らして智慧を開いてくださるというのである。
「自来迎」というのは、「自」は「みずから」ということである。阿弥陀仏の化身である化仏や観音・勢至の化菩薩など、数限りない聖者がたが、自ら常にどのような時も嫌ったりすることなく、どのような所も避けたりせず、真実の信心を得た人に付き添われお護りになるから、「みずから」というのである。また「自」は「おのずから」ということである。「おのずから」というのは「自然」ということである。「自然」というのは「そのようにあらしめる」ということである。「そのようにあらしめる」というのは、念仏の行者があらためてあれこれと思いはからわなくても、過去・現在・未来のすべての罪を転じるのである。「転じる」というのは、罪を善にかてしまうことをいうのである。求めなくても、すべての善根功徳を、仏の誓願を信じる人に得させてくださるから、「そのようにあらしめる」という。あらためて思いはからうのではないから、「自然」というのである。本願に誓われた真実の信心を得た人は、摂取不捨と誓われたその本願のうちに摂め取って阿弥陀仏がお護りになるのであるから、行者が思いはからうのではなく、決して壊れることのない他力の信心を得ることにより、おのずと本願を心にたもつことができるのである。この信心がおこることも、慈しみあふれる父である釈尊とあわれみ深い母である阿弥陀仏の手だてによるのである。これは本願のはたらきによっておのずから得る利益であると心得なさいということである。
来迎」というのは、「来」は浄土へ来させるということである。これはすなわち若不生者と誓われた本願をあらわすみ教えである。この迷いの世界を捨てて真実の浄土に来させるというのである。すなわち他力をあらわすお言葉である。また「来」は「かえる」ということである。「かえる」というのは、本願の海に入ったことにより必ず大いなるさとりに至ることを、「法性の都へかえる」というのである。法性の都というのは、法身という如来のさとりを本願のはたらきによっておのずと開くとき、そのことを「都へかえる」というのである。これを真如実相を証するともいい、無為法身ともいい、滅度に至るともいい、法性の常楽を証するともいうのである。このさとりを得ると、すなわち大いなる慈悲の心が極まり、再び迷いの世界にかえり入ってあらゆるものを救うのである。このことを普賢の徳を得るという。この利益を得ることを「来」といい、このことを「法性の都へかえる」というのである。「迎」というのは、「おむかえになる」ということであり、待つという意味である。如来が選び取られた不可思議の本願、この上ない智慧の尊号を聞いて、ほんの少しも疑う心がないのを真実の信心というのである。この心を金剛心とも名づける。この信心を得るとき、阿弥陀仏は必ずその人を摂め取って決してお捨てになることがないので、すなわち正定聚の位に定まるのである。このようなわけで、信心は破られることなく、衰えることなく、乱れることがない。それが金剛のようであるから、金剛の信心というのである。このことを「迎」というのである。『無量寿経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなわち往生を得、不退転に住せん)」と説かれている。「願生彼国」とは、阿弥陀仏の浄土に生れようと願えというのである。「即得往生」は、信心を得ればすなわち往生するということである。すなわち往生するというのは、不退転に住することをいう。不退転に住するというのは、すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。このことを「即得往生」というのである。「即」は「すなわち」というのである。「すなわち」というのは、時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

【補足】
親鸞聖人までは臨終来迎の意味ととられていたものを、
・冥衆護持の益、諸仏護念の益
・自然
・転悪成善の益
往相回向還相回向
・名号法の信受
・信益同時
現生正定聚
など、浄土真宗で重要な教えを説くところにしておられます。

特に自然の説明部分を読んで頂きたいと思います。