2009/10/26(月)
親鸞会のHPに掲げられている次の文章を、一つ前のエントリーの加茂仰順師の言葉と読み比べられるといいでしょう。
聞法の決勝点
「雑行」が分からぬのは なぜか「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。
では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。
「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)
「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。
(中略)
「弥陀が見抜かれたとおりの、絶対助からぬ逆謗でありました」
「自身は、現に、これ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし、と深信す」と機の深信が立つと同時に、その逆謗を生かす「若不生者」の誓いに疑いが晴れるのだ。
そこまで聞き抜け、と聖人は仰せなのである。
一生造悪の自己を徹見すれば、後生に恐ろしい結果が惹起することは必定だ。
この一大事に驚けば必ず、悪をやめ善をしようと「廃悪修善」の心が起きる。ここで初めて「雑行」が出てくるのだ。
釈迦の大雄弁をもってしても、ここまで導くのは並大抵ではなかった。
信仰が進んで後生が問題になった人でなければ、自力も雑行も分からず、雑行が廃って助かることもあるはずがない。
捨てよと言われる「雑行」を知るには、まず後生の一大事を知らねばならないのだ。
これが仏法の出発点である。
上の2つの文章は両方とも間違っています。
(間違いについてはすでに指摘しました)
間違っているついでに互いに矛盾しています。
自分のすがたを知ることは「決勝点」なのか「出発点」なのか。
出発点に立つ為に、仏法を聞いているのか。
雑行を知る為に、仏法を聞いているのか。
今救われたいのに、「まず後生の一大事を知らねばならない」と難題をふっかけるとはどういうことか。
これでは確かに50年くらいで合点できるはずはありません。