2009/10/30(金)
村上速水和上
先のエントリーの村上速水師の文の一部を説明します。
方便とは古来暫用還廃(暫く用いて還って廃す)の意味といわれ、真実に対して誘引をあらわす言葉である。すなわち仏願(弥陀)仏教(釈尊)についていえば、阿弥陀仏が方便の願を設けられ、釈尊がこれを経典に開説されるのは、衆生の根機に応じて誘引される意趣に外ならない。しかし今、親鸞聖人がこれをあらわされるのは誘引のためではなく、仏の本意にあらざることを示してこれを廃捨させるためなのである。
方便については既に何度も書きましたように
善巧方便
権仮方便
の2つがあります。
「第19願、第20願は方便願である」とか「観無量寿経や阿弥陀経に説かれている方便」という時の「方便」は権仮方便なのです。
村上速水師の上の文章は、
阿弥陀仏の第19願・第20願、釈尊の観経・小経は「暫用還廃」(権用)の意味で説かれたが、親鸞聖人が化身土巻にこれを示されたのは、「権用」の意味、つまり「やりなさい」「やってみなさい」ということではなく、「簡非」の意味であり、「捨てなさい」ということなのだ。
というものです。
親鸞会は方便に関して
1.善巧方便と権仮方便の混同
2.簡非であるべきところを権用として説いている
の2重の誤りを犯しております。