「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

高森顕徹先生の独言 について

2009/11/06(金)

かつて安心問答のコメント欄に書いたことですが、もう一度書きます。

高森顕徹先生の独言 より

(67) 雑行
「もろもろの雑行をなげすてて………」
                     (御文章)
 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。
 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。


この文章を、「往生の一段」と「生活の一段」に色分けします。
往生の一段は赤、生活の一段は青です。

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決する
が、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。

 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。


このように、「往生の一段」と「生活の一段」とが交互に書かれています。
最初の文には「諸善や六度万行をやる必要がない」と書かれ、最後の文には「善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない」と書かれています。このことからもこの文章には2つのことが書かれていることが分かるはずです。
最後の文の「善果」は往生とか信心のことではないでしょう。もしそうならば、最初の文と齟齬が生じますし、そもそも浄土真宗ではなくなります。
ところが、この文章を読んだ会員は、「善果」とは往生とか信心であると思っている人が少なくないのではないでしょうか。

さらに言いますと
「修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。」
は間違いです。
修善を往生の資助にしようとするから「雑行」と言われるのであり、煩悩に染まった善ですから、「雑毒の善」とか「虚仮の行」と言われるのです。この2つが混乱している文章です。

まとめますと、この文は2重に混乱している文であるということです。
1.「往生の一段」と「生活の一段」の混乱
2.「雑行」と「雑毒の善」の混乱


これでは救われるはずはありません。


使われている言葉はそのままにして訂正すると、次のようになります。

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決する。
 修善を往生の資助にしようとするから雑行と言われているのだ。

これだけでいいのです。