「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで①

2009/12/10(木)

なぜ答えぬを読む

本願寺 なぜ 答えぬ』は親鸞会の代表的な本です。
ある意味、ここに親鸞会教義が凝縮されているといってもいいと思います。
今までこのブログでは取り上げてきませんでしたが、関心のある人もいるでしょうから、少しだけ読んでみましょう。
今日は
(二)第一の非難──宿善の語義から──
の最後の部分を見ます。(78-79頁)

本願寺を、絶句させた質問の一つを、次に紹介しておこう。

宿善とは、遇法獲信の現在から、過去にさかのぼって、
その縁由を、喜ぶものであって、その縁由となった、過
去の善根については、これを自己の修する善である(宿
善自力説)」(回答書A P・144)
 このように、過去をふりかえって、喜ぶものが、宿善
なのに、親鸞会は、未来に向かって、求めよ、と修善を
すすめるから、間違いだ、といわれています。
 ならば、おたずねいたします。
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。
 獲信と、よい関係にある、修善をすすめる親鸞会を、
非難する本願寺は、間違いにならないか。

 一撃で、ダウンしたほど、本願寺の反論は、ひどいものだった、ということ
だ。
 あえて、
「読むだけ、時間のムダ」
と、酷評した次第。
 しかし、もう読まない、などといっていたら、真実開顕の使命は、果たせな
い。
 自ら、シリを叩いて、先へ、進まなければならぬ。


わざわざ囲んである文章なのですが、この中の、
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。

は、大間違いです

「私は去年はたくさん寄付をしたから、それが宿善になった救われたんだぁ。してよかったぁ。」
「私は去年はたくさんの人を勧誘したから、それが宿善になった救われたんだぁ。やってよかったぁ。」
となれば、自力が間に合うことになります。

それに・・・
救われた人は、このようには思いません。
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
なのです。

この『本願寺 なぜ 答えぬ』は、
分かった人が読むと面白い本なのですが、
(『歎異抄』や『安心決定鈔』とは違う意味ですよ)
分かっていない人が読むと、
「読むだけ、時間のムダ」
どころか、
「読むだけ、害悪」
です。