2009/12/15(火)
なぜ答えぬを読む
第二問
「私は聞法を否定するなどとは一言も書いてはいない。破邪顕正や財施(高森親鸞会への献金、会費)等が、獲
信のための宿善となるのだから、これを修せねばならぬとする主張に疑義を呈したのである」(回答書ⒷP・三一)
「聴聞については、『聞其名号信心歓喜』の法であるから、巳信、未信を問わず、みずから聞法につとめると共
に、他の人たちにも聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない。しかし、今生において聴聞に励むことは、どれぼど懸命に努め励んでも、それは、あくまで救いの法をお聞かせいただくのであって、これを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとは、いわないのである」(回答書ⒶP・一四五)
ここでは、「いわない」ということは、「ならない」ということか、の疑問が生じます。
獲信の現在から、ふりかえったとき、過去の聞法修行や修善などが、宿善として喜ばれると、次のように記されているからです。
「本願の法に遇い、これを信じ喜ばせていただくのは、宿世の善根、すなわち、宿善にもとづくものである。宿善として、善本(善根)、持戒、見仏、供仏、聞法修行、発菩提心、修善、修福などが、示されてある」(回答書ⒶP・一四〇)
宿善になると「いわない」ということは、「未来の獲信の縁由にならない」ということなのか。
ただ言葉遣いだけの問題なのか。おたずねいたします。
要約
③「いわない」ということは、「ならない」ということか。
④ただ言葉遣いだけの問題なのか。
【答え】
③「いわない」ということは、「ならない」ということか。
宿善になると「いわない」ということは、「未来の獲信の縁由にならない」ということなのか。
という質問でしたら、そうですよ。
獲信は阿弥陀仏の本願力の独用です。
この質問自体が、実は意味が無いのです。
そもそも「未来の獲信」をすすめてるのでしょうか。
平生業成なのに。
④ただ言葉遣いだけの問題なのか。
上に述べた通りです。
第二問は以上です。