2009/12/15(火)
なぜ答えぬを読む
第四問
「私は宿善の厚薄を認めない、などといっているのではない」(回答書ⒷP・二三)
と、宿善の厚い人と薄い人のあることを認めてあります。薄い宿善が厚くなり、宿善開発するのですが、宿善の薄いものは、この世で、どんなにしても厚くなれないのか。
聞法をすすめることと、宿善開発とは、無関係なのか。
おたずねいたします。
要約
⑦この世で、宿善は厚くなれないのか。
⑧聞法をすすめることと、宿善開発は、関係ないのか。
【答え】
⑦この世で、宿善は厚くなれないのか。
宿善の厚薄があるということと、宿善が薄かったのが厚くなるということとは違います。
上の文章の中の「薄い宿善が厚くなり、宿善開発するのですが、」の部分が間違いです。
この質問も意味が無い質問です。
「この世で獲信できないのか」
という質問ならば意味があります。
(答えは当然「できます」です)
⑧聞法をすすめることと、宿善開発は、関係ないのか。
「私の」聞法によって救われるのではありません。
阿弥陀仏の独用です。
阿弥陀仏の仰せが聞こえて下されたのが「信心」です。
こういうと、必ず「関係ないのか、あるのか。イエスかノーで答えて下さい」というのが常套手段なので、あえて、それに合わせて答えますと「関係ありません」
聞法は、信前も信後も大切です。
どちらとか言うと、信後の方が大切です。