「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

「君達は何もわかっていないのだ」という言葉について考える

2010/01/19(火)


「君達は何もわかっていないのだ」
とよく言う人がいます。
 通常こう聞くと、そう言った本人は
「私はわかっている」
または「私は少しはわかっている」
または「私は全てわかっている」
ということを暗に示しているものと受け取ります。
 この場合、何について「わかっている」のか「わかっていない」のかが問題なのですが、「君達は何もわかっていないのだ」と言われると、字(言葉)の通り「何もわかっていない」と思ってしまうようです。
 しかし、よく考えると、「君達は何もわかっていない」と言っている人は、実は、法律のことも医学のことも建築のことも教育のことも経営のことも料理のことも漢字の書き順も「何もわかっていない」のです。そして「君達は何もわかっていない」と言われている人達の方が、「わかっている」ことが多いのです。

 では「君達は何もわかっていないのだ」という言葉は間違いなのかというと、そうではないのです。これが仏教のことについて言っているという前提で話をしているならば、正しいのです。
 しかし、一番最初に戻りまして、「君達は何もわかっていないのだ」と言った本人は、
「わかっている」のか
または「少しはわかっている」のか
または「全てわかっている」のか
といいますと、実は、やはり「何もわかっていない」のです。

 では阿弥陀仏に救われたと人とそうでない人と同じなのかと言いますと、一つだけ違うのです。
それが
「ただ念仏(南無阿弥陀仏)のみぞまこと」
なのです。

 たぶん「君達は何もわかっていないのだ」という言葉は、「迷情の四句は四句皆非なり 悟情の四句は四句皆是なり」という有名な仏教の言葉を現代風にアレンジして使っているのではないかと思います。
 この「迷情四句四句皆非 悟情四句四句皆是」という言葉は慈恩大師基(基というのが名前です)の書いた、『大乗法苑義林章』という書物に出ています。慈恩大師基は西遊記でも有名な玄奘三蔵の一番弟子で、法相宗を開いた人です。法相宗というのは簡単にいえば、唯識学を勉強する宗派です。
 もちろん「迷情四句四句皆非 悟情四句四句皆是」が、間違いだと言っているのではありません。これは正しいです。この場合「迷」「悟」というのは「凡夫」「仏さま」ということです。四句というのは自・他・共・離(無因)ということですが、私は専門ではありませんので、説明は省きます。
 この言葉は(特に「迷情四句四句皆非」は)、浄土真宗の学者の人達も使っていますので、それはそれでいいです。

 しかし、「迷情四句四句皆非」を「君達は何もわかっていないのだ」と言い換えて、まるで「水戸黄門の印篭」や「遠山の金さんの桜吹雪」や「暴れん坊将軍の顔のアップ」のように、相手を黙らせるために使ってはいけないと思います。

 ではどういうべきなのかといいますと、あくまでも一例ですが、
「君達は何もわかっていないのだ。そう言っている私も何もわかっていないのだ。ただ念仏だけがまことだと知らされるではないか」
と言ってもらいたいと思います。

 親鸞聖人のお言葉を聞かせていただきましょう。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(歎異抄第2章)

「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄後序)

歎異抄第2章についての説明は「用管窺天記」の「歎異抄の仮定法」中の梯和上の文をお読み下さい。