「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

安心論題講述(大江淳誠著)より 二種深信

2010/08/30(月)

大江淳誠和上

 善導大師が『観無量寿経』を解釈されました『四帖疏』の第四巻散善義に、『観経』の三心のうちの第二の深心の意を述べられたましたそのお釈の中に、

 「二には深心」と。 「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。 一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。


とあるのご文が、この論題のよりどころであります。
 ところで宗祖聖人のお釈によりますと、『観無量寿経』には顕説と隠彰の両様の意味があるといわれます。その顕説というのは経文の上に顕著に示されてある側の法義であって、第十九願の要門の義であり、隠彰というのは経文の上ではさかんに説かれてなく隠微に示されてあるが、それは第十八願の法義であるとされてあります。したがって三心の意義もこの隠顕の両方の義にわたってくるのであります。そこで深心も両様にうかがわれるのでありますが、いまこの二種深信という場合はその隠彰の義すなわち第十八願の法義に限るものとするのであります。
 『散善義』の釈文の初めに、まず、

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。


とあるのは、『大無量寿経』の第十八願成就の文に「聞其名号信心歓喜」とあるその信心の語をもって『観経』の深心を解釈されるのであって、深心の本義は第十八願の意にありとされる意味であります。
 そこで次に「また二種あり」といわれる「二種」は第十八願の信心すなわち純粋なる他力の信心を両方に開いて示されるのであって、二種とあっても別のものでないことがわかるのであります。
 その「二種あり」といわれるうちの初めはいわゆる「機の深信」というのであって、お名号の至りとどいた人すなわち信心を得た人にあっては自分の本来のすがたを知らされた側をあらわすのであります。自分本来のすがたというのは無始よりこのかた生死の境界をめぐって来て、今日只今も妄念の心しばらくも止むことなく貪欲・瞋恚の思いがいつも起こっており、したがって未来永劫迷いをでることのできぬのが自分の実情であると知らされるのであります。知らされるというのは「聞其名号信心歓喜」の「信心」の内容であってみれば、名号の到り届いたところにあらわれるものでありますから、機の深信といっても自分が知るのではなくして知らしめられるのであります。過去・現在・未来にかけて三界生死を離れることのできぬ自分ということを知らしめられることを機の深信とするのであります。その三世にわたって生死を出られぬと知らしめられた心の内容というのは、自分では生死を出られるような行のできぬこと、すなわち自分の力の役に立たぬことを知らされることであり、自力の心を全く離れること、自力心のすたったことをいうのであります。
 次に法の深信というのは如来の法のありのままを知らしめられることであります。その如来の法というのは名号のいわれであり、名号は本願の成就した果号であります。いまのご文では「阿弥陀仏の、四十八願衆生を摂受したまふこと」と示されるのであります。「四十八願」とありましても実は第十八願のことであります。深心釈のうち宗祖の申される第七深信の文に「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて」などと申されるところに「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」とある仏願と同じでありますから第十八願のことであります。その「法」は我ら衆生を摂めとってくださる願力の独用、名号のはたらきで往生させてくださることを「衆生を摂受したまふこと」といいます。「疑なく慮りなく」というのは「かの願力に乗じて」という乗の意味でありまして如来の願力に対していささかの疑いもなく慮りもなくうちまかせた心ぶりを「疑なく慮りなく」といいます。「かの願力に乗じて」の「乗」の意味は『行文類』に「駕なり」「登なり」とお示しなされてありまして、駕に乗れば駕にまかせ、船に載せられたら船の運びにまかせるごとく、何ら気がかりもなくうちもたれた心ぶりをいうのであります。
 そこで信機・信法二つになっていましても一つの信相を示されるのであります。自己の本来の相を知らしめられたところに己の力を用いんとする心がすたり、本願のありのままを知らしめられるから願力にうちもたれるのであります。そこで己の功を用いんとする心のすたったままが願力にうちまかせたのであり、願力にうちまかせたままが自力心のすたったのであります。これを「捨機託法」といいます。「捨機」とは機の功を用いんとする自力の心のすたったことをいうのであり、「託法」というのは法に乗託する、すなわちうちまかせた心でありますから、この二つは願力を仰ぐ喜びの心を両方から述べたことであります。
 また願力の法というものは三世にわたって出離の縁のない機のために成就されたもので、『信文類』に聞其名号の「聞」の意味を解釈されて、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。


と述べられてあります。その生起本末という「生起」とは本願の起こらねばならぬ「もと」ということでありまして、その「もと」とは生死輪廻のはてなき我ら衆生のことであります。「本末」というのは法蔵因位の願と行とを「本」とし、十劫の正覚の成就を「末」とします。そこで「生起」は機であり、「本末」は法のことになります。したがって法は機のためにあるので、機を離れた法はないことになります。このように機と法とは離れられぬ一具のものでありますから、信機・信法の二種も一具ということになります。捨機託法といえば捨機即託法であり、信機・信法といえば二種一具ということになります。いずれの言い方にしましても二種深信は他力の信心、第十八願の信楽のすがたをあらわされたものにほかならぬのであります。
 『往生礼讃』の前序の文にまた三心のご解釈がありまして、その第二の深心の釈が二種となっております。その文というのは、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。


とあります。初めに「深心すなはちこれ真実の信心なり」とあるのは『散善義』の釈と同じく本願成就文の信心をもって『観経』の深心を解釈されて深心の本義は第十八願の義にありとされるのであり、そこでそれを開いて信機・信法の二種とされるのであります。「信知」という語が二度置かれてあるのは、その意であります。
 その初めの機の深信の文において、「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず」とあって『散善義』の方に「現にこれ罪悪生死の凡夫」などとあるのと文の相が少し異なるように見えますが、その意は同一であります。「出離の縁あることなし」というのも「三界に流転して火宅を出でず」というのも同一のことであります。『礼讃』の方には「善根薄少」といい、『散善義』の方に「罪悪生死」とあるのは、ただこれ言葉の緩急の別だけであります。その法の深信の文にあっても『礼讃』の方には「本弘誓願は、名号を称すること下十声」などといって称名を出してあるが、『散善義』では後の方にある、いわゆる第七深信のうちの就行立信の文に「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて」などといって称名をあげ、次に「これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」と第十八願に順ずるの行としてあるのと何ら異なるところはありません。『散善義』は『観経』の文を釈せられるものであるから深心についても広く解釈せられ、『礼讃』は序文の中であるから簡単に示され、『散善義』のいわゆる第七深信の「順彼仏願」の称名を第二の深信の中に摂めて示されるのであります。
 次に、この二種深信は第十八願の信心についてのみいわれるので、方便の願である第十九の願や第二十願の信にはいわれません。『二巻鈔』の下巻に宗祖聖人は初めに二種深信の文のみをあげて、

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。


と示され、その後に「文意を按ずるに」などといって、七深信をあげられてあります。それで信機・信法の二種深信は弘願の信に限るとされるのであります。
 次にこの二種深信は勿論初起・後続に通ずるのであって一生涯にわたって相続する心相であります。かの二河白道の解釈において貪瞋煩悩は一生涯にわたって続いているのであり、白道の信心ももとより一生相続の信とされてあります。白道の行者となった他力信心の人でも、その性得の根性は一生涯にわたって同じことであって地獄一定のものであります。あたかも石の重さが、その陸上にあるとき百貫のものは、船の上に載せてからでも同じく百貫の石であります。すなわち石でそれ自体は水に沈むのがその性質であります。その船上に載せて沈まぬのは沈む石の重さより浮き上がらしめる船の力が勝るからであります。それがごとく行者の自性は生死の海に沈むべきものでありますが、阿弥陀仏の大願業力の押し上げる力が勝るものであるから地獄一定の性得の凡夫が彼岸の浄土に到るのであります。
 このように性得の機の無功であって、ただ願力の法のみによるの意義は初起も後続も一貫して変わりがないのであります。