「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

歎異抄第2章を読む その2

2009/08/03(月)
前回に引き続きまして、歎異抄第2章を読みたいと思います。

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

関東から命がけで京都まで訪ねてきた門弟たちに親鸞聖人がおっしゃったと言われる言葉です。
ここで、「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」とはどういうことなのでしょうか。
考えてみましょう。
ここでは
「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」と
「また法文等をもしりたるらん」の
2つのことについて門弟たちが疑問を持っていたということが分かります。
2つ目の「また法文等をもしりたるらん」は、親鸞聖人御消息集の「さては慈信が法文のやうゆゑに、常陸・下野の人々、念仏申させたまひ候ふことの、としごろうけたまはりたるやうには、みなかはりあうておはしますときこえ候ふ。かへすがへすこころうくあさましくおぼえ候ふ。」などからも分かりますように、慈信房善鸞の言いだした法文を指しています。
では、1つ目の「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」はどういったことを表しているのでしょうか。
この主語は親鸞聖人ですから、「この親鸞が念仏以外の道を知っており・・・」と親鸞聖人がおっしゃったのですが、なぜ親鸞聖人がこのようにおっしゃったのかということです。
この親鸞聖人の言葉から類推できることは、誰かが「念仏以外に往生の道があるぞ」と言い出したというものでしょう。
その「誰か」とは誰なのか?
念仏以外の往生の道とは何なのか?
題目を唱えて極楽往生できると教えた人はいませんので、これは違います。
すると、この1つ目もやはり慈信房善鸞のことを指していると考えるのが自然です。
御消息には
「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。 」
善鸞の行状について書いておられますように、善鸞は念仏(第十八願)だけでは助からないと言いだしたのではないかと思います。
このことは同じく御消息の「笠間の念仏者の疑ひとはれたる事」の内容とも関連します。

このように読むと、次の「南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば・・・」と続く文も意味が分かります。
ここからは、承元の法難の直接のきっかけとなった興福寺奏状やその少し前の延暦寺奏状(延暦寺大衆解)が思い出されます。

興福寺奏状は下記のものです。

元久2年(1205年)、南都の興福寺の僧徒から、吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。
興福寺奏状
興福寺僧網大法師等誠惶誠恐謹言
殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。
九箇条の失の事
第一新宗を立つる失
第ニ新像を図する失
第三釋尊を軽んずる失
第四不善を妨ぐる失
第五霊神に背く失
第六浄土に暗き失
第七念仏を誤る失
第八釋衆を損ずる失
第九国土を乱る失

この中の第6の「浄土に暗き失」とは何でしょうか。
他の8項目は理解しやすいですが、この6番目の非難はどういうことでしょうか。
私がかつて読んだことのある本を調べてみましたが、どういうわけか、この6番目だけが抜けていました。
なぜでしょうか?

それにしても、聖道門の人が浄土門の人を非難するのに、「浄土に暗き失=浄土の教えを知らない」とは奇異な感じです。
これはどういうことかというと、
法然上人が諸行往生(観無量寿経に説かれてある定善、散善による往生)を否定され、下品下生の悪人に教えられた念仏一行をとって、念仏往生を勧められたからです。
それは、聖道門の人たちからは、観無量寿経そのもの、ひいては大無量寿経の三輩の往生までをも否定しているように見えたのです。

そして、法然たちの説いていることは、廃悪修善、自業自得の因果の道理を無視し、仏法を破壊するものだと言っているのです。
その根拠としているのが、
 諸悪莫作
 衆(諸)善奉行
 自淨其意
 是諸仏教
の七仏通誡偈だったのです。

つまり、解脱貞慶上人たちは、聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめようとしたことが分かります。
これではすべての人を平等に救うという阿弥陀仏の本願を理解できるはずがありません。

法然上人は西方指南鈔(親鸞聖人筆)に次のように仰っています。
問。極楽ニ九品ノ差別ノ候事ハ。阿彌陀佛ノカマヘタマヘル事ニテ候ヤラム
答。極楽ノ九品ハ。彌陀ノ本願ニアラス。四十八願ノ中ニナシ。コレハ釋尊ノ巧言ナリ。善人悪人一處ニムマルトイハハ。悪業ノモノトモ慢心ヲオコスヘキカユヘニ。品位差別ヲアラセテ。善人ハ上品ニススミ。悪人ハ下品ニクタルナリト。トキタマフナリ。イソキマカリテシルヘシ云云

話を元に戻しましょう。
慈信房善鸞は何を唱えたのでしょうか?
それは
「第十八の願に説かれている念仏の救いだけではいけない。諸善万行もしなければならない。」
といったようなものであったのでしょう。
そうすれば、歎異抄第2章の前半は無理なく理解できます。

もちろん、善鸞は、
・余の人々を利用しようとした
・神に仕える者ののまねをした
などもしていますが、関東の門弟たちが命がけで聞きに行かねば、分からないことではありません。
また、歎異抄第2章には「念仏無間」を唱えた日蓮宗を意識しての言葉もないことはないですが、長い人で20年以上親鸞聖人から教えを受けていた門弟たちが迷うようなことでもないと思います。
日蓮が鎌倉で念仏無間を唱えたのは親鸞聖人が80歳を過ぎてからで、それがそんな短期間に関東一円まで広まり、門弟たちを動揺させたとも考えにくいことです)

長くなりましたので、今日のところはここまでとします。

【補足】
延暦寺奏状は嘉禄の法難時にもあります。(元仁元年)
上記文中の延暦寺奏状は元久元年のものです。