2009/08/19(水)
『歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
今回は「第2部『歎異抄』の解説」中の該当箇所の感想です。
内容に入る前に、第2部の中での歎異抄第3章に扱いについて思うことを述べます。
「なぜ善人よりも悪人なのか?」
という見出しは、この本の帯のコピーにも使われています。
また、1万年堂出版の紹介ページでも、歎異抄の文で載せられているのは、
第3章の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と
後序の「万のこと皆もって そらごと・たわごと・真実あることなし」です。
さらに、その下には「名文を名筆で楽しむ」として木村泰山氏の謹書の見本が出ていますが、それも、歎異抄第3章です。
これほど、第3章を宣伝しているにもかかわらず、第2部の中ではどれほどの紙面がさかれているでしょうか。
全部で18ある本文の内訳は
第1章・第2章 各4
第3章~第10章 各1
後序 2
です。
確かに、重要性から言えば、「第1章」「第2章」「後序」そして「第3章」となるでしょうが、それにしても、あまりにも少ないのではないでしょうか?
なぜ宣伝と比較して第3章の記述が少ないのでしょうか。想像しました。
・宣伝には大いに使ったが、実は第3章はあまり重要ではないと考えている。
・第3章について書きたくない理由がある。
・第3章について書けない。
などではないかと思います。
他に深い意があるのかもしれませんが、分かりません。
この度、私が歎異抄第3章について書いた時は、まず観無量寿経について9回(重複する部分もありますが)、第3章そのものについて数回、記事を書いております。
それでも「悪人正機」のルーツ問題には触れていませんし、十分な説明ができているわけでもないと自覚しています。
本格的に書こうとしたら、何倍もの分量になります。
多ければいいということでもないでしょうが、もう少し書かれてもよかったのではないでしょうか。
18というのが動かせないのならば、せめて
第1章 3
第2章 3
第3章 2
第4~10章 各1
後序 3
といったところが妥当ではなかったかと思います。
後序を多くしたのは、後序は大きく5つの内容に分かれていますし、その中に親鸞聖人の重要なお言葉が2つ書かれていますので、これくらいの紙面を割り振っても少なくないと考えたからです。
感想をもう1点。
小見出し(またはリード文)は
「善人なおもつて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
ですが、これですと
「歎異抄のお言葉」に対する誤解を正された、親鸞聖人の「歎異抄のお言葉」
ということになります。
トートロジー的であり、文章としておかしいと思います。
手術を受ける前の「はるな愛」や「椿姫彩菜」が「私は男よ♡」と言えば、「エェ!ホント?」となりますが、「森田健作」が「俺は男だ!」と言っても、「言わなくても分かってるよ」となるようなもの・・・じゃないか。
失礼しました。
(なお「俺は男だ!」という表現はトートロジーではなく、「俺は俺だ!」とか「男は男だ!」と言った場合にトートロジーになります。また「俺は男だ!」は強調表現ですので、おかしくはありません。)
本文については、次回書きます。