「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」

2009/10/14(水)

いろいろ不可解な言葉があるので、思いつくままに考察します。
最近、といいますか以前からずっと聞く言葉に「善をしなければ 信仰は進みませんよ」というものがあります。
「修善が絶対できない逆謗の屍が十方衆生」とも言われていますので、この二つを合わせると、「修善が絶対できない逆謗の屍である十方衆生は、善をしなければ信仰は進まない」ということになるのですが、非常に分かりにくいですね。
「善をしなければ・・・」ということは、ひとまずおいておきまして、「信仰は進みませんよ」という言葉について考えます。

そもそも浄土真宗では「信仰」という言葉はあまり使われません。
(全く使わないわけではないです。浄土真宗の信仰、親鸞聖人の信仰等)

「信仰は進みませんよ」の「信仰」は何を表した言葉なのでしょうか?
1.真実信心
2.教え
3.宿善
4.理解
などが考えられます。
1.真実信心
 「真実信心が進む」というのはどう考えてもおかしいので、速攻ボツです。
2.教え
 「教えが進まない」もやはりボツ。
3.宿善
 「宿善が進む」というのはどうでしょうか。
 これもおかしいですね。
 やっぱりボツ。
4.理解
 「理解が進む」というのは言葉としては成り立ちます。
 しかし「善をしなければ 理解は進みませんよ」という言葉にするとおかしいですね。
 それならば、善というよりも聞法とか勉強とか学習とか言った方がいいでしょうね。
 「聞法しなければ理解は進みませんよ」
 「勉強しなければ理解は進みませんよ」
 「学習しなければ理解は進みませんよ」
 などとなります。
 これならば、いずれもOKですね。
 やはり「理解」というのも違う気がします。

では「信仰が進む」の「信仰」ってなんでしょう?
私には分かりません。
不可解です。
また、「進む」という言葉から「程度」「段階」などがイメージされます。
そのような概念を、「本願力回向の法義」「全分他力の教え」の浄土真宗を語る際に、重要な言葉として用いるのはいかがなものでしょうか。