「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

不可解な言葉に関する考察 その1「善をしなければ 信仰は進みませんよ」②

2009/10/14(水)

ある雑誌にこういう文章が書いてありました。
どこかで「信心の沙汰」をしていた記録だそうです。
テーマは
三願転入を説き「善をしなければ、信仰は進みませんよ」といえば、みな「善が間に合う」と聞く。そんな間違いやすいことを話してよいのか。
という《非難》についてどう答えるかでした。
いろいろと話し合われた最後に、司会者の「支部長」という人が

 非難者は結局、善をしたくないんでしょう。「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。方便なんかいらん。善の勧めなんかいらん。弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ」と。
 方便からしか真実に入れないのに、自分は方便を通らずに18願へ転入できると、とんでもなくうぬぼれている。弥陀の御心を、少しも分かっていないのです。善の勧めを否定する腹底は、そこにある。決して惑わされてはいけません。(強調は原文)

と締めくくっておられました。
どうしてこのような締めになるのかは分かりませんが、それはさておき、
「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。方便なんかいらん。善の勧めなんかいらん。弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ」
という文章は間違いであると言っています。
この人は願海真仮ということが分かっていないんだなぁと思います。
用語をまとめますと
 真実ー真実ー他力
 権仮ー方便ー自力
という対応になります。
ここで注意すべきは「方便」とは「権仮方便」であって「善巧方便」のことではありません。
先程の言葉の中の「方便」を自力に置き換えたり、補ったりすると
「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、(他力の)18願に飛び込め。方便(=自力)なんかいらん。(自力の)善の勧めなんかいらん。弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ」
となります。
これ正しいんですけど・・・
自力が捨てられなくて困っている人が多いんですけど・・・
なんでわざわざ否定するのかよく分かりません。
言葉としてはここまで分かっている(真逆なんですけど)ことは立派だと思います。
残念ですね。惜しいですね。
でも結局、全く間違っています。
この支部長という人は、弥陀の御心を、少しも分かっていないと思います。

なお「方便からしか真実に入れないのに、自分は方便を通らずに18願へ転入できる」ということは前の言葉とは同じではありません。
生れた時から救われている人はいないのです。