「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

二種深信についての勉強

2009/11/10(火)

理解するんじゃないと言っておきながら何だ!とつっこみはなし。
信心と教学は別の話です。
ただ二種深信は信心そのもので、これを間違っているとまずいです。
(知らないとまずいということではありません。間違っているより知らない方がいいとも言えます)
というわけで、二種深信について勉強しましょう。
今日のサンプルは

チューリップ企画と田中一憲氏の論戦
【第13回】一念は真実信心の信相 より
次に聖人は、「信相の一念」についてこう教えられている。
「一念と言うは、信心二心無きが故に一念と曰う、是を一心と名づく、一心は則ち清浄報土の真因なり」 (教行信証
この意味は、「信相の一念」とは「二心無きこと」とも「一心」とも言い、「清浄報土の真因」である、と聖人は云われている。
即ち「信相の一念」とは「二心」のなくなったことだ、と教えていられるのである。
では、「二心」とは何か。
弥陀の本願に対する「二心」であり「本願の疑惑心」のことである。故に「信相の一念」とは、弥陀の本願にツユチリほどの疑心も無くなったことを云う。
弥陀の本願に疑心がなくなれば、弥陀が救わんとなされた者(真実の自己)とはどんな者か、ということと、そんな者を必ず救うと誓われた弥陀の本願真実が、ハッキリと知らされる。
ハッキリ知らされたことを「深信」といわれるから、弥陀の本願に全く疑心がなくなれば、「真実の自己」と「弥陀の本願真実」の二つが同時にハッキリ知らされるのである。これを「二種深信」といわれる。
これでお分かりのように、「信相の一念」とは「二種深信」のことである。
仏法では自己のことを「機」といい、真実の自己を「実機」という。弥陀の本願は真実の「法」だから「真法」とも言う。
二種深信」とは「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」がハッキリしたことだから、「機法二種深信」とも言われる。然もこれが、同時にあるから「機法二種一具の深信」とも言われるのである。
以上で明らかなように「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことであり、「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」とが同時にハッキリする「二種一具の深信」のことであると、聖人は仰っているのである。

【第14回】機法二種深信とは より
「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことである。それは、二つのことがハッキリすることだ。
真実の自己の「実機」と、弥陀の本願の「真法」とである。
真実の自己の「実機」をハッキリ知らされたのを「機の深信」といい、弥陀の本願の「真法」をハッキリ知らされたのを「法の深信」という。
真実の信楽には、この二つの「深信」が同時にあるから「二種一具の深信」と言われることを先回明らかにした。
そこで先ず、「機の深信」でハッキリ知らされる真実の自己とは、どんな者か。善導大師は、こう仰っている。
『一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す』
いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた、と仰っているお言葉である。

この中にはいくつかの間違いがあるのですが、決定的な間違いは、
「二種深信」とは「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」がハッキリしたことだから、「機法二種深信」とも言われる。然もこれが、同時にあるから「機法二種一具の深信」とも言われるのである。
の箇所です。
特に
然もこれが、同時にあるから「機法二種一具の深信」とも言われるのである
が間違いです。
二種深信とは2つのことが同時にあるのではありません。
一つの信心の2つのすがたを示されたものです。


また「機の深信」を
いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた
と表現しているのも間違いです。
この間違いはすぐには分からない人もいるかもしれませんが、使っている言葉を全く変えずに言い換えますと、
いままでも、いまも、いまからも、極悪最下の絶対に救われることのない私であった、とハッキリ知らされた
となります。
ん?同じでないの?と思う人は何度もよく読んで下さい。

何箇所も出てくる「なくなった」という表現については、先のエントリーですでに述べました。

[補足]
私も勉強不足で、「弥陀の本願」を「真法」という言い方は聞いたことがないのですが、どなたか教えて下さらないでしょうか。