2009/12/02(水)
某ブログに今話題の『電話座談会』の記事がありました。
↓ここ
http://blog.goo.ne.jp/fujita_srk/e/33f52a3fe7590b440aca06f2c7ed913f
情報有り難うございます。
歎異抄第1章には、特に誤解されやすい一節として、
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに
これを高森顕徹先生は、
ゆえに、弥陀の本願に救い摂られたならば、一切の善は無用となる。弥陀より賜った念仏以上の善はないからだ。
また、どんな悪を犯しても不安や恐れは皆無となる。弥陀の本願で助からぬ悪はないからである。
と意訳されています。
「本願を信ぜんには」を、「弥陀の本願に救い摂られたならば」と解釈する歎異抄解説書は、皆無と言われます。
ほとんどが、「弥陀の本願を信じるには」と解釈しているものばかりだそうです。
今日の浄土真宗では、「念仏さえ称えておれば助かる」と思って積極的に善に励もうとしない、ネガティブな者達ばかりであると、言われます。
「弥陀の本願を信ずるには、一切の善は無用」と解釈することから、このような真宗の堕落が始まったと言えるでしょう。
“「本願を信ぜんには」を、「弥陀の本願に救い摂られたならば」と解釈する歎異抄解説書は、皆無”
“ほとんどが、「弥陀の本願を信じるには」と解釈しているものばかり”
とありましたので、現在入手可能な種々の歎異抄解説書で「本願を信ぜんには」がどのように訳されているか、ちょっと調べました。
【本願を信じるには、信ずるためには という訳】
・歎異抄(聖典セミナー)[梯 實圓著]
本願を信ずるには
・歎異抄(ちくま学芸文庫)[阿満利麿著]
本願を信じるためには
・歎異抄(講談社学術文庫) [梅原 猛著]
この阿弥陀さまの本願を信ずるためには
・歎異抄全講読[安良岡康作著]
弥陀の本願を信じようとするに当っては
【本願を信じたならば という訳】
・浄土真宗聖典 歎異抄[本願寺 浄土真宗教学研究所]
本願を信じるものには
※註 この意味を「本願を信じているなら」とするか「本願を信じるためには」とするか
で、解釈が分れている。
・歎異抄略註[多屋頼俊著]
阿弥陀仏の本願を信じますならば
・はじめての歎異抄[山崎龍明著](『歎異抄を生きる』も同じ)
この教えに生きる者には
・歎異抄(角川ソフィア文庫)[千葉乗隆著]
阿弥陀さまの本願を信ずる人は
・<定本>歎異抄[佐藤正英著](『歎異抄論釈』も同じ)
阿弥陀仏の誓願を信ずるのであれば
・歎異抄を読む(講談社学術文庫)[早島鏡正著]
ほとけの本願を信ずる者には
・現代語訳 歎異抄[野間 宏著]
本願を信じさえすれば
・歎異抄・正信偈・和讃[池田 勇諦、中西 智海 著]
阿弥陀仏の本願を信ずる者は
・歎異抄 教行信証(中公クラシックス) [石田瑞麿訳]
本願を信ずる人には
・親鸞と歎異抄入門[大法輪閣編集部編]
この本願に目覚めたならば
・歎異抄講讃[林 智康著]
本願を信じるものには
・歎異抄講話(講談社学術) [暁烏 敏著]
本願を信じたならば
・現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く [親鸞仏教センター]
本願の救いに目覚めるならば
【その他】
・歎異鈔講話[瓜生津隆雄著]
本願を信ぜん信には
※「本願を信じたならば善悪は問題とならぬのである」ということではない、
との説明あり
・歎異抄を読む[緒方正倫著]
阿弥陀仏の本願を信じようとする信には
・歎異抄事辞[谷川理宣、土井順一、林智康、林信康]
阿弥陀仏の本願を信ずるからには
・講座 歎異抄[中西智海著]
この本願を信ずるからには
確かにどちらに訳すかで解釈は異なってきますが、いずれであっても本願のこころをあきらかにすることはできると思います。
(ただ、上のブログの内容は間違っていますよ)
それにしても、「皆無」「ほとんど」「ばかり」など極端な表現が多いのですが、プロパガンダ体質が感じられます。