「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

∞ループ

2009/12/03(木)



親鸞会発行の顕真(平成21年11月号)の44頁に掲載されている「法友通信」を通して、親鸞会の教義について考えてみましょう。
「法友通信」の場合、出した手紙文そのままが掲載されるのではなく、弘宣部によってアレンジされますので、教義のことが書かれている場合は、それが弘宣部=親鸞会の考えです。
ある講師部員の手紙の要約です。(強調は元々です)

「雑行」分からぬ原因
 後生の一大事を知らせることがいかに大変か。だから、釈迦の一切経の99パーセントが、因果の道理であったとお聞きしました。
 後生の一大事が問題にならなければ、「自力」も「他力」もない、全く“無力”です。これが現今の浄土真宗の実態です。
 後生の一大事助かりたいと思って、諸善を励んでいる人に、「雑行を捨てよ」と言われているのですから、この一大事が問題にならなければ、善に向かおうともしないし、「雑行を捨てよ」の真意も分かりません。
 そのために、「善を勧めることが間違いだ」「善をする必要はない」と言いだす者もいます。
 すべて後生の一大事の抜けた仏教だからだと知らされます。


分かりやすくするために、強調部分以下を言い換えましょう。(最後の文は除きます)

①インフルエンザを治したいと思って、市販の風邪薬を服用している人に、それでは治らないからタミフルを服用しなさいと言われているのです。
②だから、
③自分がインフルエンザであると自覚しなければ、市販の風邪薬を服用することさえもしようとしないし、タミフルの服用を勧める意味も分かりません。
④そのために、
⑤市販の風邪薬は適切でないよと言いだす者もいます。


文①と文③はそれぞれは意味が通りますが、①だから③ということは言えません。
①は
自分がインフルエンザであると自覚しているが市販の風邪薬をのんで治そうとしている人
について述べられています。
③は
自分がインフルエンザであると自覚していない人
についてのことです。
それぞれ違う事柄を表していますので、それを「だから」で結びつけるのは乱暴です。
インフルエンザを治してもらおうと思って医者に行った人に、「あなたはインフルエンザにかかっていることを自覚しなければならないですよ」と言う医者がいれば、完全にヤブです。
もっと言うと、「あなたは自分がインフルエンザであることが分かってからここに来なさい」と言う医者のようなものです。
そんな医者がいるはずないでしょう。

譬ですので、合わないところもありますが、
たとえ自分がインフルエンザであることを知らなくても、薬をのんで治ったならば、治ったこともインフルエンザだったということも分かる。
ということなんですね。

⑤について言えば、普通の風邪ならば市販の風邪薬でいいのですから、文そのものが不十分です。悪意があるということです。
インフルエンザと分かっているならば、市販の風邪薬を勧めることは間違いであり、服用する必要はありません。
本来はインフルエンザの患者を治すべきなのに、なぜかどうしても市販の風邪薬をのませたいようです。

元の手紙を読めば分かりますように、「阿弥陀仏」も「本願」も「南無阿弥陀仏」も「名号」も「信心」も「念仏」も書かれていません。
かろうじて「他力」という言葉はあります。
全部書けということではないですが、一つくらいはあってもいいのにとは思います。
心がかかっていないということですね。

エントリー「顕正新聞を読んで」で既に指摘したことと同じなのですが、「因果の道理→廃悪修善①→後生の一大事を知る→廃悪修善②→以下同じ」となり、「間違った因果の道理の話」というトリガーによって引き起こされた無限ループから離れられないのです。
廃悪修善①は後生の一大事を知るための廃悪修善
廃悪修善②は後生の一大事を解決するための方便としての廃悪修善
廃悪修善①と廃悪修善②は都合によってごちゃごちゃに使われます。
それで永遠にこのループから出られません。
生死を出離する前に、このループから出なければならないという何とも悲しいことになります。

会員の目的は阿弥陀仏に救われる(究極的には往生極楽・成仏、現生では信心獲得)ことではなく、「後生の一大事に驚く」ことに転化されます。しかし後生の一大事が分かりませんので、それがさらに「廃悪修善」に転化してゆくことになります。
浄土門から聖道門への逆行とでもいいましょうか)
これでは阿弥陀仏の本願力に救われることはありません。