「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

本願を聞くとは

2009/12/04(金)


親鸞聖人の「聞といふは」の御文と、蓮如上人の末代無智の御文章を拝読しましょう。
まず、一度読みましょう。

 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
教行信証信巻 註釈版聖典251頁

 末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
御文章5帖目第1通 末代無智章 註釈版聖典1189頁)


さて、ここでもう一度じっと二つの文を見ましょう。

教行信証の方は、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
の文をもう一度読みましょう。

この文章は
①「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心なし、これを聞といふなり。
でも
②「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きくことなり。
でも
③「聞」といふは、衆生、仏願に疑心あることなし、これを聞といふなり。
でもありません。
何度でも書きます。
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
です。

「聞」という字が最初のを除いて2回使われています。
③はそのうちの一つを省略していますね。
これではせっかく親鸞聖人が詳しく教えられたことが意味が無くなります。
①の場合は、「疑心なし」ですと、聞いて疑いが無くなったようにとれます。
そうではなくて、疑いのない心=仏心=名号=悲智円具の南無阿弥陀仏を聞くのが聞であり、信ですから「疑心あることなし」なのです。
②は「疑心あることなし」が無いですから、違うことはすぐ分かります。

次に末代無智の章をもう一度読みましょう。

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。

この部分が、「第十八の念仏往生の誓願のこころ」であり「仏願の生起本末」です。
「かくのごとく決定して」が「疑心あることなし」です。

ここで大事なのは、「こころをひとつにして」「一心一向に」と同じ意味のことが重ねて言われていることです。
つまり、

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。

は、「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば」を抜いて、

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、さらに余のかたへこころをふらず、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。

としても、文章の意味は変わらないと思いがちですが、実はそうではないということです。
「一心一向に仏たすけたまへと申さん」が、親鸞聖人のお言葉でいえば「聞いて」に当たりますので、抜いてはいけません。
大事なのは本願の通りに聞くということです。

阿弥陀仏は本願となって、名号となって私に届いておられるのです。
眼で見るのでもなければ、鼻で嗅ぐのでもない、舌で嘗めて味わうのでもないし、肌に触って感じるのでもない。
聞くのです。
どうか聞いて下さい。