2009/12/09(水)
梯 實圓和上
如来より回向された真実心(その体は名号)は、私が受け容れたときに私の至心になります。しかし、受け容れるとは、疑いをまじえずに名号(至心、すなわち本願のまこと)を聞き受けることですから、至心を受け容れている心のありさま(機相)は、無疑、すなわち信楽であるといわねばなりません。したがって、私のうえで至心と信楽の関係をいえば、信楽の本体は至心であり、至心の信相は信楽であるということになります。
「信相」とは、私たちの心(機)の上の(機相)に、はっきりと現れている信心のありさまのことです。また信心にかぎらず私たちにはっきりと識知できる信心に関する心のはたらきを、一般に「心相」とも「機相」ともいいます。それに対して、如来より与えられている名号の徳義である大智大悲の真実心は、仏のみがしろしめすさとりの領域であって、私たちの思慮分別を超えていますから、識知することはできません。それを古来法徳(法の徳義)と呼んでいます。しかし、その不可思議の仏智を嘘・偽りのない真実と疑いなく受け容れているのが信楽ですから、信楽(信心)の本体は不可思議の真実心(至心)です。そこで至心を信体(信心の本体)と呼び、疑いなく受け容れている信楽を至心の信相と呼ぶわけです。
こうして信楽は至心(名号)を領受した無疑の信相をいい、至心はその本体である如来回向の真実心ですから、「利他回向の至心をもって信楽の体とするなり」といわれるのです。こうして一つの信心を信相でいえば、完全に行者のはからいを離れた疑蓋間雑なき信楽であり、その体徳をいえば至心、すなわち如来の清浄真実なる願心を信体としています。それゆえ金剛堅固の信心であるという信心の超越性と尊厳性が明らかになります。
(梯實圓著『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』204-205頁)
※「信相」「機相」「法徳」の3語の下線は私が引きました。