「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

人生の目的・多生の目的

2009/12/24(木)



 親鸞会では「人生の目的」という言葉をよく使います。使ってはいけないということではないですが、使い方がおかしいと思います。
 親鸞会では「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、なぜ生きねばならないのか」と説明します。
 問題はこの中の「なぜ生きねばならないのか」というフレーズで、この言葉があるために「平生業成」でなくなってしまう危険があるのです。
 言葉そのものは間違いではないように感じますが、これ聞いた人は、人生の目的を「今から死ぬまでの目的」と考えます。さらに「人生の目的どころではなく多生の目的なのだ」と聞くと、達成を先に延ばします。多くの親鸞会の会員が信心決定をあきらめているのはそのためです。ほとんどの会員は「信心決定は自分には無理だが、教えられることは悪いことではないから、その通りやっていれば次生・次々生には救われるかもしれない」と浄土真宗とは似ても似つかぬ考えを持っていると感じます。
 「多生の目的」という言葉を使うのも結構ですが、それは振り返ってのことであり、先に延ばすものではありません。

会員の頭の中を図示しますと、
図①
 [生まれて来た時]→→[今]→→(人生の目的)どこかで達成できれば万々
   →→[死] 達成できなければ持ち越し(多生の目的)→→[多生]


しかし、本来はこう考えるべきです。
(あくまでも同じ言葉を使ってのことです)
図②
 [過去](多生の目的)→→[生まれて来た時]
   →→(人生の目的)[今][死]〈現生正定聚
     →→往相→→[死]〈往生即成仏〉→→還相


「人生の目的」「多生の目的」が書いてある位置が違います。
人生の目的は今の問題であり、今は常に死と触れ合っているということをあらわしたかったのです。
なぜ、図①に「現生正定聚」「往相」「往生即成仏」「還相」の文字を書かなかったというと、図①の考えをしていては救われないからです。
(うまく書けませんでしたが、分かって頂けましたでしょうか)