「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)

親鸞会除名後、多くの方に浄土真宗を伝え2012年7月にご往生された近藤智史氏のブログ

信仰という言葉

2010/01/18(月)

稲城選恵和上

興味深い論文がありましたので、ご紹介します。
稲城師の強調は下線、私の強調はボールド体で示します。
末尾に稲城師の説をまとめておきました。

蓮如への誤解の誤解』所収の論文
 『蓮如への誤解』の問題点(稲城選恵師述) 三、信仰について より
 信仰という言葉も元来仏教の言葉である。『大宝積経』三十五巻「菩薩会開化長者品」第一によると、……、また同八十八巻の「摩訶迦葉会」にも、……、「大正蔵経」索引によると、「阿含部」から「蜜教部」まで、この『大宝積経』以外には出ていない。前の文の信仰は正しく信心とはその意を異にする。後の文も信心とも解せられるが、おの経典の意味は尊崇を意味するようである。それ故、宇井博士の『仏教辞典』では、
三宝を信じてこれを欽仰するをいふ」
とある。また中村元博士の「辞典」にも同様に釈されている。この意味においては信仰は初起の信心というよりは後続に属する用語といわれる。あたかも『教行信証』総序の結尾にある。
「……遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。……」
とあり、更に「化身土巻」後序の結尾に、
「しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。 」
とある敬信や信敬の意味に通ずるようである。
 浄土真宗の上でも三経、七祖の上ではこの用語は存しない。更に宗祖の聖教の中にも見あたらないが、蓮如上人の『帖外御文章』や『聞書』には存する。-但し「帖内」には一ヶ所もない-『帖外』二十八通には、
「……しかりといへども、この当山にをひてはいよいよ念仏信仰さかりにて、一切の万民等かやうにまうすわれらにいたるまでも、……」
とあり、この場合の信仰は信心にも通じ、後続の尊崇の意味にも通じる。また「御一代記聞書」十三条にも、
「……まして、御一流を御再興にて御座候ふと申しいだすべきと存ずるところに、慶聞坊の讃嘆に、聖人の御流義、「たとへば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫のをすりて玉をなすがごとし」と、『御式』(報恩講私記)のうへを讃嘆あるとおぼえて夢さめて候ふ。さては開山聖人の御再誕と、それより信仰申すことに候ひき。 」
とあり、最も具体的にいわれている「拾遺聞書」ー一期記ーによると、……、この場合の信仰は正しく尊崇という意味である。それ故、仏教では信仰という用語は信心にも通じる場合もあるが、多くは法を尊崇する意味に用いられている。

 この信仰を浄土真宗の他力の信心の信心と同義とされたのはおそらく大谷派清沢満之によるものであろう。清沢満之の著作『精神主義』によると、「信仰問答」ー明治三十五年五月ーには、
信仰は自力であるといふお考へで差しつかへないと申しておきましょう。……しかるに信仰のためには自己をば内観反省して、信仰の必要を感じ、信ずべきものとあるからは何でも信ずるといふ決定がなければならないといふことであります……」
とあり、また「信仰と疑惑」「理解と信仰」によると、
信仰と理解は必ず調和すべきものとして、決して衝突すべきものにあらざるなり」
とある。また明治三十二年三月のものには「信仰の進歩」「他力信仰の発得」とあり、明治三十四年四月のものに「信仰の余瀝」を出されている。しかしこの用語はキリスト教の『聖書』にはじまる。明治の初年に出された『聖書』にも「信心」という用語は用いず、「信仰」を出されている。現在の『聖書』でも新約、旧約等しく『信仰』とあり、信心という用語は用いていない。それ故、キリスト教のどの辞典をみても信仰という語彙はあるが、信心という語彙はない。(略)「さて信仰とは望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とある。特に確信という言葉を出されている。(略)ここに信仰はしばしば用いている確信ということである。宗祖の信心の解釈にはこのようなものはみられない。
 宗祖の上では信の対句は疑である。それ故、信心を無疑といわれるのである。
(中略)
信仰と浄土真宗の信心とは全く似而非なるものである。

引用はここまで

稲城師の説のまとめ】
一切経の中で「信仰」という言葉が使われているのは、『大宝積経』だけであり、その場合でも信心の意味ではない。
・七祖、親鸞聖人は「信仰」という言葉は使われていない。
蓮如上人が『帖外御文章』『御一代記聞書』の中で使っておられるが、主として法を尊崇する意味に用いられている。
・「信仰」を他力信心の意味で使ったのは清沢満之師である。
・また、「信仰」という言葉はキリスト教に由来する。
・確信するという意味の「信仰」は自力の信であり、親鸞聖人はそれを「疑」と言われた。
・そういう意味で、「信仰」は浄土真宗の信心とは似て非なるものである。